Interview 元・青年海外協力隊 井上昌夫さん
2014.3.31
井上昌夫さん。マレーシア派遣から36年たった今もなお農業関連の仕事を続けている新潟県出身。1978~80年、パハン州テメローのジェンカに、農業サポート要員として派遣。パーム油の木とゴムの木の入植地であるジェンカで野菜作りを指導。肥料を集めて土を耕すところから、収穫した野菜を販売するところまでサポート。約40年前のマレーシアで暮らした井上さん。牛の糞と格闘したり、唐辛子をワイルドにかじったり、当時の“熱い”生活の様子をたっぷり語っていただきました。(上の写真は、当時ジェンカに研修に訪れた日本人に話しをする井上さん(一番左))
※入植地とは、開拓のために移住した土地のこと。30~40年前のマレーシアでは、国家事業として行われていた。
マレーシア全土から約200世帯がジェンカに集まり、大きな集落を作っていた
テメローからジェンカまではジープで1時間ほどキャベツを栽培したとき、徐々に葉っぱが巻いてくる様子を村の人は「マジックなのか!」と言ったのだそう
音:JICAに入ったきっかけを教えて下さい。
井上さん:学生時代、ベトナムのドキュメンタリー映画に感銘を受け、「僕は海外に行かなきゃいけない」と思うようになりました。新卒で入った会社の海外事業が中止になったので、青年協力隊(JICA)で海外を目指そうと。高知県の農業研修所でスキルを身につけ、農業隊員としてJICAに合格! 任地はマレーシアでした。
音:マレーシアのどこでしたか?
井上さん:マレーシア、パハン州のテメローにあるジェンカという場所です。ここは、パーム油の木とゴムの木の栽培を目的にした入植地。当時のマレーシア政府が推進していた事業で、管轄は連邦土地開発公社「Felda(フェルダ)」。マレーシア全土から約200世帯が公募で集まり、ひとつの大きな村を作っていました。広さは約4エーカー(4800坪)。ジャングルを切り開いた広大な土地です。
音:NHKドラマ『大草原の小さな家』のイメージですね。
井上さん:村の人は政府から土地を借りていて、収入を得たら返済していく仕組み。でもパーム油の木やゴムの木が育つまでは生計を立てる手段がない。そこで、空いている土地で野菜を育てて、収穫した野菜を売って収入を得る、という事業を支援したのです。
ジェンカに唯一あったお店。ここにいた女の子(右)が井上さんの話し相手。マレーシア語が上達したのは彼女のおかげ音:土地を耕すところから携わったんですよね。
井上さん:もちろん。水道も肥料も設備も何もありませんからね。水源は近かったので、穴を1メートルぐらい掘ると自然に水が染み出てきて、それを使うことができました。農業用水だけでなく生活用水もその水。
正直、派遣された当初はつらかった。まずマレー語が通じない。基本のマレーシア語は学んでいきましたが、村の人は色んな地方から来ているので、方言を話すんです。言葉が分からないなぁとよく聞いてみたら、ジャワ語を話していた、なんてこともありました。
野菜を育てるためには牛とコウモリの糞が必要
井上さんがアイデアを出し、村長からの承認が得られたら、プロジェクトが進むパーム油の原料である、アブラヤシの実を収穫しているところ
音:野菜作りで大変だったことは?
井上さん:肥料です。パーム油のための化学肥料はありましたが、野菜作りには使いたくなかった。土地が痩せてしまうからね。
そこで目をつけたのは、牛とコウモリの糞です。今振り返れば、村の人が僕を認めてくれたのは、たぶん牛の糞を運んだ時からだと思う。というのも、牛の糞は人気なので、できたてホヤホヤのときに運ばないと取られてしまうんです。だから、シャツが糞まみれになって匂いもきつかったけど、ホヤホヤ糞を何度も運びました。
テメローの街に野菜を出荷。キュウリを販売しているところコウモリの糞は、洞窟までとりにいきました。洞窟の中は真っ暗なので、ジープのライトで照らして、糞を吸い込まないようタオルで口を押えて、糞を採取。さらに、この洞窟への道が、まさに道なき道のジャングルで、1カ所すごい場所があったんです。崖に丸太が2本渡してあって、その上をジープで渡るんです。不安定な丸太の下は深い谷。あれは肝を冷やしました。前輪を丸太に乗せたら、ハンドルをそのままにして一気にアクセルを踏む。ゆっくり進むのは余計に怖いので、目をつぶってエイッ!と(笑)。
大事なことは技術じゃない。「野菜作り、やってみようかな」と思ってもらうこと
バナナの苗を植えるイベントを開催したときの様子トマト、茄子などたくさんの野菜を栽培することに成功
音:野菜作りで大事なことは?
井上さん:大事なのは、野菜を作る技術じゃないんです。野菜を作ろう、と思ってもらうこと。そもそも村の人は入植地で野菜を作ろうなんて思っていません。やる気になってもらうこと。これがいちばん大事で、そして難しかった。
だから、野菜をやってみよう、という人が現れたら、徹底的に付き添いました。一緒に野菜を育てて、収穫し、商店で現金に換えるところまで付き合う。村の人はその姿を見ています。
村の人の注目を集めることもやりました。バナナの苗を植えるイベントをやったり、接ぎ木をして育つことを見せたり。そうしているうちに、野菜をやりたいという人が増えてきて、最終的には、カリフラワー、ブロッコリー、スイカ、キャベツ、キュウリ、カチャンパンジャン(長い豆)、トマトを栽培。全部おいしかった。
唐辛子をかじながら白飯をかきこむ食事。体を洗うのは共同の水溜め場
村の人の家に招かれてごちそうになることもあった。このお父さんは野菜作りにとても熱心だった左の家族の家でごちそうになったご飯。どれもとてもおいしかった
音:現地ではどんな食生活でしたか?
井上さん:チリアピ(小さな唐辛子)をかじって食欲をかきたて、白い飯をぐわーっとかきこむ生活。和食はまったく恋しくなりませんでした。だって毎日40度の気候で、和食は合わないよ。
派遣された当初は毎日だるくて仕方がなくて、ちょっと参っていたら、村長が「塩分をとってないからだ。イカンマシン(干した塩魚)を食べろ」と。たしかにTシャツに塩がつくぐらい毎日汗をかいていたので、村長の言葉通り、意識的にイカンマシンを食べるようになったら、あっという間に元気に! さすが村長。
移動手段はバイク。4エーカーの土地の見回りにもバイクで村にビールはありません。どうしてもビールが飲みたくなったら、オートバイで真っ暗なジャングルの道を1時間半かけて、テメローの街まで飲みに行っていました。帰り道、ときどきコブラのような黒い影を目撃し、そのときはバイクの荷台の上に足を乗っけてエイッと通り過ぎていました。
音:井上さん、よくエイッと行動していますね(笑)
井上さん:お風呂は共同の水溜め場。水にはボウフラがたくさんわいていましたが、水面をコーンと叩くとすーっと下に沈むので、上澄みをすくえば綺麗なもんです。そういえば、最初は蚊に刺されまくっていましたが、いつの間にか刺されなくなっていたな~。オイルランプの灯りで読む司馬遼太郎の『坂の上の雲』で、俺も頑張るぞ!と自分を奮い立たせる毎日。あとは野菜のことばかり考えていました。
音:このときの経験は、今の井上さんにどんな影響を与えていますか。
井上さん:今も農業関係の仕事を続けていて、このときの経験がベースになっています。今の僕の会社は福島県にある畑と契約を結んでいて、その事業を何としてでも成功させたい。原発、大雪と大変なことは山ほどありますが、これぐらいでは絶対にくじけない。だって水も肥料もないところから野菜が作れたんだよ。ジェンカの時代は『坂の上の雲』でしたが、今は『怪傑ハリマオ』の歌で自分を奮い立たせています(笑)
あの2年間のマレーシア暮らしで、1番僕にとってよかったのは、ひとりでいる時間が長かったことです。本当にやりたいこと、本来のじぶんと向き合うことができたから。これは日本に住んでいたら決してできないことです。また、言葉は通じなくても、誰かは必ず見てくれている。一生懸命にやっていれば、いつかは必ず分かってくれる。この体験を体に沁みこませることができたのは大きい。とくに農業は、論理的思考だけでは無理なんです。野菜作りは子どもを育てるのと同じことだからね。この言葉、今から36年前のテメローの時代からずっと変わらずに伝え続けています。よく考えたら、僕はあのときと、何にも変わっていないんです。
音の感想: マレーシア時代を振り返った井上さんは、「ひとりでいる時間が長かったことがよかった」と教えてくれました。スマホや携帯で四六時中何かとつながっている現代とは真逆な生活。いうなれば、人間という存在が、それそのもので完結していた時代です。でもよく考えたら、井上さんがその頃から全然変わっていないように、人間なんて何~も変わっちゃいないんです。電気があって水道があって便利な生活にはなったけど、ご飯食べて寝て恋して、と同じ。だから、ひとりでいることを恐がる必要なんてどこにもないんだよ、と井上さんのインタビューを終えて感じました。井上さん、ありがとう。